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概要

北九州市芸術文化情報誌「CulCul」・ 「かるかる」  発行/北九州市、(公財)北九州市芸術文化振興財団 出版事業課

7 CulCul 2014.July〈埋蔵文化財の展示案内〉・北九州市立埋蔵文化財センター(小倉北区金田1の1の3 093(582)0941)北九州市を掘る(77) 埋蔵文化財速報展『古墳時代の集落と平安時代の工房ー御手洗遺跡ー』古墳時代の土師器や平安時代の陶磁器、瓦など50点を展示 常設展もあり。【開催期間】8月24日(日)まで【開館時間】午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)※毎週月曜日(休日の場合はその翌日)休館【入館料】無料・黒崎歴史ふれあい館(八幡西区黒崎3の15の3黒崎駅横コムシティ1F)常設展『城下町から宿場町へ~出土品が語る黒崎の歴史と文化~』   『シュガーロード・発掘物語』【開館時間】午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)※年中無休【入館料】無料埋蔵文化財hiroba 川 上 秀 秋遺跡からのメッセージ(公財)北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室 学芸員Hideaki Kawakami 細川忠興が1602(慶長7)年に築城した小倉城の城※1郭からその南※2側周辺は明治以降、軍施設建設に伴う大規模な整地を受け、道で区画されたかつての武家屋敷跡(以下、屋敷)の多くが消失もしくは地下に埋もれてしまいました。 しかし、近年の発掘調査により三ノ丸の屋敷の一部が再びその姿を現しています。今回は、三ノ丸跡の南半部(以下、南半部)で検出した屋敷の一部を紹介します。 南半部の南北の範囲は、およそ北九州市役所前の道から南約350mに位置する市立勝山弓道場までです。この中には小倉小笠原藩の藩校である思永館や さて、第二次長州征討で窮地に陥った小倉藩は1866(慶応2)年8月1日、自ら城に火を放ち田川郡香春へと退きます。この日、黒部屋敷の北に隣接する渋田見屋敷ではある問題が起きていました。城内に火が付けられ家中立ち退きの伝令が来たにもかかわらず、老ろう主しゅ舎人は退去を拒み続けたのです。この時、奥方の名代として屋敷にとどまり戦いで出兵したご子息の新様や部下の安否を見届けますと、舎人を説き伏せたのが侍女の玉枝でした。2日後の同月3日、長州軍の兵が屋敷内に入り同女は長刀を手に戦いを挑みますが、左腕に銃弾を受けたのち屋敷に火を放って自害しています(「小倉藩三番手の大将、渋田見新の侍女玉枝勇戦忠ちゅうし死の事」『豊前叢そう書しょ』第六巻所収)。 玉枝の墓は不明ですが、屋敷境の溝4と溝5が接する場所に作られた時期や由来も判断し難く、他に類例がない1点の土器皿が出土しました。皿の内面には金と黒漆で「丸に三つ葉葵の紋様」が施されています。今後の研究によりこの皿が渋田見家由来ないし玉枝の死後の製作であれば、亡き玉枝の弔いのため同家の当主が屋敷の南東側隣接地に埋めたと考えることもできるでしょう。小倉城最後の女性戦士   ―渋しぶ田た見み家侍女玉枝のこと―第二次長州征討の際に活躍した家老島しま村むら志し津づ摩ま、島村の政敵であり小倉城自焼を決めた執政家老小こ宮みや民みん部ぶ 等の屋敷がありました。図1左側は中央図書館裏の公園に存在したかつての道と屋敷の位置を、調査で確認された遺構を基に復元した図です。 図1左側に小倉城三ノ丸跡第2地点の範囲を赤線で示しています。図2に示したように、この地点では道とそれに伴う溝1。この溝1の西に隣接して屋敷の外郭に築かれた石垣や築地塀を検出。屋敷内には屋敷境を示す溝4やこの溝の東端に接して南に間口約3mの門跡。さらに門跡の東端から西約4・5mには門跡に伴う溝5等を検出しています。門を中心とするこのような遺構配置は、思永中学校改築工事に伴う調査で検出した宮本伊い織おり屋敷の長屋門跡の平面と同様です。 では、この長屋門内の屋敷には誰が住んでいたのでしょうか。報告書では第2地点は『小倉藩士屋敷絵図』中の渋田見舎とねり人(中老・1700石)・黒部六ろく右え もん衛門(外と様ざま者もの頭がしら・400石)・原麟太郎(大目付・250石)各屋敷の東端とされています(図1右側参照)。これら屋敷の中で唯一東に表を設けている屋敷の六右衛門が幕末の居住者となります。【このコーナーの次回掲載予定は9月号です】図1 南側の街路復元図と屋敷絵図の関係部分図2 三つ葉葵紋土器の出土位置※1 本丸?三ノ丸※2 現在のスピナガーデン大手町付近まで