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概要

北九州市芸術文化情報誌「CulCul」・ 「かるかる」  発行/北九州市、(公財)北九州市芸術文化振興財団 出版事業課

4 文学館では、入手しづらい北九州ゆかりの作品を収めた「文学館文庫」を発行しています。3月末に刊行予定の11巻目は、小倉藩の勇将・島村志津摩を主人公に、第二次長州征伐のときの小倉藩と長州藩との戦いを描いた、劉寒吉『山河の賦』をお届けします。今回は、作者・劉寒吉について紹介しつつ、『山河の賦』の魅力をお伝えしたいと思います。 劉寒吉は1906(明治39)年、北九州・小倉に、かつて小倉藩の砂糖御用達商であった「濱田屋」の長男として生まれました。本名は濱田陸一といいます。天神島尋常小学校に通い、小学校4年の時に転校してきた、後に『富島松五郎伝』(『無法松の一生』)を著す岩下俊作と出会います。ちなみに、同小学校の2学年上には児童文学者の阿南哲朗、2学年下には松本清張がいました。劉と岩下とは友人として、また文学上の好敵手として、一生を通じた付き合いとなりました。 その後、劉は小倉商業学校(現・小倉商業高校)に進学、このころから文芸同人誌で作品を発表し始めます。卒業後も家業の傍ら創作活動を続け、岩下らの同人誌「稜体発光」に参加、引き続き「とらんしつと」同人となります。この「とらんしつと」には17号から火野葦平が参加し、以後親しい交わりを持つことになります。33(昭和8)年には「とらんしつと」を含めた5誌の合併により「第二次九州文学」が創刊。この九州を代表する文芸同人誌「九州文学」を、劉は一生をかけて守り抜きました。 そして、火野葦平が「糞尿譚」で第6回芥川賞を受賞したのは38年のことでした。この受賞に勇気を得た同人たちは一斉に小説を書き始め、劉は「魑魅跳梁」を執筆。本作は雑誌「改造」の懸賞で佳作となり、39年9月、「九州文学」に「人間競争」と改題して発表されました。それから41年5月より「山河の賦」の連載が始まります。福岡日日新聞(現・西日本新聞)に、103回連載された本作は、42年、六芸社より刊行され、翌年には第三回九州文学賞を受賞しました。 劉は「翁」で芥川賞候補、「十時大尉」「風雪」でそれぞれ直木賞候補となり、その筆力を証明し、以降作家としての歩みを進めます。特に九州を舞台とした歴史小説を多く手がけ、没するまで創作を続けました。また森?外旧居の保存や歴史博物館、美術館の設立にも力を尽くし、北九州の文化醸成に多大な貢献をしました。 さて、『山河の賦』は劉最初の単行本であり、没後の90年に新人物往来社(現・KADOKAWA)から再刊された評価の高い作品です。地元・小倉を舞台に奮闘する島村志津摩の姿と心根は、読者の心を強く打ちます。長州軍に敗戦を重ね、小倉城をも自焼させて、もはや必敗の状況となった小倉藩において肥後藩への撤退が大勢を占める中、志津摩は一人、涙を流し決戦論を主張します。故郷である小倉を捨てることへの強い憤りが、彼を突き動かしたのです。生まれ、育った故郷の豊かな山河は志津摩の心に深く刻み込まれていました。それを失うことは、彼にとって死も同然です。それは、他の小倉藩士にとっても同じでした。志津摩の怒りが、皆にそれに気付かせたのです。 このような個人の「内面」は、史実には表れません。志津摩が決戦論を主張した、結果、小倉藩はそれを採った、という史実があり、劉はその空隙、あるいは因果として、小倉の山河を内面化した志津摩の怒りを描きました。 ここに描かれているのは、史実の間から立ち上がってくる一人の人間像です。『山河の賦』の読者はそれに心打たれ、そして、歴史を「いま」として感じることができるのです。 本書が刊行されるころ、小倉城では桜が咲き始めている時期です。桜の下で『山河の賦』を読みつつ150年前の島村志津摩の勇姿に思いをはせてみる、というのはいかがでしょうか。劉寒吉『山河の賦』(六芸社1942年4月)劉寒吉北九州市小倉北区城内4の1093(571)1505【開館時間】午前9時30分~午後6時(入館は午後5時30分まで)【休館日】月曜日【入館料】一般200円 中高生100円 小学生50円〈年間パスポート〉一般400円 中高生200円 小学生100円Information文芸hiroba 稲 田 大 貴北九州市立文学館 学芸員Daiki Inadaようこそ文学館へしづまちみちょうりょう「文学館文庫11 山河の賦 劉寒吉」刊行!