魚町遺跡第3地点3区

所在地 :北九州市小倉北区魚町四丁目
調査時期:令和6年12月10日~令和7年2月28日
調査面積:573㎡

 

調査の内容  

      

 本遺跡は小倉北区魚町四丁目に所在する。紫川の支流である神嶽川のすぐ東側にあり、付近の標高は約2mである。調査区は2区に分かれており、北側を3−1区、南側を3−2区とした。なお、3−1区は1区(令和4・5年度調査)・2区(令和5年度調査)の東側隣接地である。小倉城下の東曲輪に位置しており、『小倉藩士屋敷絵図』(幕末期)によると、3−1区は「紺屋町一丁目」の「町屋鋪」に、3−2区はその南側に位置する「文殊堂」の敷地内に相当する。

 3−1区では、石列、礫群、埋甕、胞衣壺、土坑、溝状遺構、ピットなどが検出された。少なくとも2面の遺構群が確認でき、上面では屋敷境の位置に南北方向の2号石列が並び、その他にも建物の区画に伴って石列が並んでいる。2号石列は自然石と矢穴が残る角柱状の石材が使われている。また、下面で検出された4〜6号溝状遺構は床面に多くの小ピットが見られ、杭状のものを打ち込んだ痕跡である。境界を示す竹垣のような構造物だと考えられる。この北側には小円礫が敷き詰められた土坑が3基並んでおり、建物の礎石跡だと考えられる。

 3−2区では、石垣、井戸、埋甕、胞衣壺、土坑、溝状遺構、ピットなどが検出された。石垣は4面確認され、このうち、1号は南北方向に延びており、北側で東に折れて2号に接続する。長さ約27m、高さ約1.5mを測る。自然石を用いた野面積で、基本的には乱積だが、部分的に布積を呈する。また、一部、近代の井戸によって壊されている。接続する2号は、本来、さらに東側に延びていたと考えられるが、近代のヒュ−ム管を設置する際に壊されているため、約1.5mが残存するのみである。また、2号の北側には対面する向きに3号石垣があり、両石垣の間が溝として機能していたと考えられる。この溝はさらに東へと続いていており、これが文殊堂(3−2区)と町屋鋪(1・2・3−1区)の境界となっている。

 また、3−1・2区ともに旧地形は神嶽川の氾濫原上にあり、その上に堆積する造成層には、主に18世紀代以降の遺物が含まれている。『正保城絵図』(1644〜1648)では、調査区に相当する位置に、神嶽川の東岸に延びる半島状の地形が描かれており、表記は何も記されていない。また、享保13年(1728)の『豊前之国小倉城之図』には、この半島状部分の根元に鳥居の表記があり、川の東岸部との間には橋が架けられている。

 これらの状況から遺跡周辺は18世紀に開発が始まったと考えられ、小倉城の城下町の形成を考える上で貴重な資料を得る事ができた。

 また、遺構からの出土ではないが、近代の浄化槽の掘方にて灯籠の脚部が出土しており、これには「天正二年甲戌 閏十月吉日」の銘が記されている。今回の調査では当該期の遺構や遺物は確認されていないため、別の場所から持ち込まれた可能性がある。

 これらの成果は町屋の状況の一端を示しており、近世の城下町を考える上で重要な資料を得る事ができた。

    

     

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3−1区 掘削状況(南から)


 

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3−2区 全景(上が北)


 

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3−2区 1・2号石垣検出状況(北西から)

    

    

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3−2区 3号石垣検出状況(南西から)


 

 

主な遺構

 近世

 石垣、石列、礫群、埋甕、土坑、溝状遺構、ピットなど

主な遺物

 近世〜近代

 陶磁器、土師器、瓦質土器、土師質土器、瓦、砥石、硯、銭貨、

 キセル、曲物、下駄、建築材など

 コンテナ

 783箱

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